8月が来るたびに  祖母の記

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8月15日 終戦の日

つよぽん です。

「どんな貧乏でも、いいから、あの人が生きていて欲しかった。」わたしは幼い頃から祖母のこの言葉を何度も耳にした。

 
母方の祖母が生まれたのは愛知県の山奥の貧しい村。継母に疎まれた祖母は、親戚の庄屋に養女として出されことになる。

「柿をたくさん作っていたけど皮しか、しゃぶらせてもらえなかった。実なんて食べたことが無かった。」 養女といえば聞こえは良いが、そういう扱いだったらしい。子どもとはいえ、労働力としてしか扱われなかったのだ。

やがて年頃になった祖母は一人の青年に恋をした。行商で村々を巡って来る、名古屋で洋服屋を営んでいる青年だ。二人は、お互いに好感をもつようになった。

二人の仲を知った庄屋は、祖母に、こんな言葉を投げつけた。「あいつと、一緒になるなら縁を切る。」 洋服屋風情より、自分と同じ資産家に嫁がせたかったのだ。

祖母は、庄屋の家を飛び出して裸一貫で青年のもとに走った。その青年が、わたしの祖父だ。

「優しい人でね。御園座(名古屋にあった劇場)に、よく、つれていってもらったよ。」やがて4人の娘にも恵まれた。

しかし幸せな結婚生活も6年で終止符を打つことになる。祖父に赤紙が来たのだ。

日の丸の旗を振りながら出征を見送ったときに、まだ赤ちゃんだった四女(わたしの叔母)が火のついたように泣き出し、いつまでも泣き止まなかった。祖父の運命を感知していたのだろうか。

祖父は白い箱となって帰ってきた。中には「髪」と「爪」が入っていた。


8月が来るたびに  祖母の記 祖父はマーシャル諸島の、ブーゲンビル島で「餓死」した。ブーゲンビル島は連合軍と日本軍が激しい戦闘を繰り返した島だ。

補給を考えない無謀な作戦の犠牲者なのだ。中日新聞で生き残った人の手記を読んだことがある。虫、ミミズ、木の根、あらゆる物を口にして生き抜いた。南方特有のマラリアなどの熱病も蔓延して生存できたことが奇跡なのだ。



「何度も思った。こんな工場、辞めてやろうってね」

残された祖母は自分の力だけで四人の娘を育てた。男に混じって工場で働いたのだ。仕事は楽ではなかったが、それ以上に、、若い未亡人である祖母に注がれる男たちの好奇な目、いまでいう「セクハラ」が辛かったと言っていた。

「夢に出てくるんだよ。あの人がね。苦労かけたなって。兵隊の服を着てね。ハッとして目がさめると、いつも夜明けだよ。戦争さえなければね・・・。」

祖母が祖父の元に旅たってもう、20年の時が過ぎた。


文中のブーゲンビル島の戦闘写真は、「アフロ総合フォトライブラリー」より借用しました。





 
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